ガルパンかんそうぶん
この記事は2016年11月20日に書きました。
2012年にガルパンが放映されてからはや4年、それまで特に興味が無かったのだけど、とあるきっかけで遅まきながらガルパンを通してみたので、その感想を思いつくままつらつらと書いてみる。
まず結論として、これはおもしろい。今となっては結果論になってしまうが売れるのも納得できるアニメだった。
感想をまとめると次になる。
- 不思議と感じるリアリティ
- フィクションとのバランス感
- 3DCGとデジタル彩色との合成の違和感のなさ
- 独特のユルさ
- 各キャラクターごとの個性を強調するためのアニメ的女子校生観
- 描写のメリハリ
- オーバー過ぎるキャラクター描写と感情の切り替わり(強烈な個性を持ったキャラクターたち)
- キャラクター描写は特に精細・幕間での展開を想像できる情報量の多さ
- 展開のざっくりさ、12話に収めるためのちょうど良い時間スケール
初め1話を見てみて、主人公のリアクションが一昔前の少女マンガのそれでかなりオーバーなのが目についた。
えっ?お茶?女子校生みたい!
西住みほ in 1話
1話における、主人公みほの発言だが、これはある意味メタ的言動とも考えることができる。 2話以降は話に関わる主要キャラクターが一気に増えるためか、以降はオーバーさは鳴りを潜める。代わりに登場キャラクターおのおのの個性は強烈である。 各キャラクターは、アニメ的な女子校生をベースに、その各々がわかりやすいモチーフを元に言動と意匠が組み立てられていて非常に情報過多、通して見るとその高度な知識量から生み出されるであろうマニアックな言動からおっさんっぽさがうっすらと透けて見える。真に受ける理由も1つに、(アニメ的な)女子校生としての無垢な主体と合わせて背後にあるおっさん的思考のアンバランスさ、が影響していることは間違いない。
全12話、約240分、約4時間で、各自妄想できるような各キャラクターの大体の背景が伝わる描写のさじ加減はとても難しく思えるのだが、強烈な個性を各々に持たせることで描写の省略がうまく働いている気がする。
ただまぁ、ここまでの話は他のアニメでも良くある話ではある。これだけでは、一般を含めてヒットを飛ばすには至らないだろう。ある種、軽音部をモチーフにそのノスタルジアを押し出したけいおんの延長線上にある本作では、ストーリーの骨子として部活動に戦車を組み合わせた。一見するとSFな、しかし現実にモチーフが存在するこの組み合わせは、今までに例は無い。青空少女隊やらストラトスフォーやらサブマリン707Rやら、SFに振り切れていない比較的現実寄りのミリタリーモチーフのアニメは数あれど、そのどれもが兵器・戦争と近しいイメージの生死が(青空少女隊はちょっと違うが、多少なりとも)絡んでいる。ガルパンでは、作り込まれた独特な世界観によってそうしたイメージの一掃がなされており、現実の部活動として、もしかしたらありえたかもしれない、と考えることができるリアリティを(戦車を武道として扱うために多少無理やり感はあるが)実現している。戦車による戦闘描写を、部活動と言う括りで正当化しており、緊迫感とユルさのバランスが絶妙である。
日常系などのゆるさを持った昨今のアニメにおいてはキャラクターの努力シーンが極力省かれることが多いが、このアニメにおいてもいくつかの練習シーンはあるが非常にカジュアルな描写に留まっている。ガルパンでは理想的な、そして個性的なやさしい(都合のよい)世界の描写に成功している。こうした世界観の造り込みが、何のことはない日常を切り取ったとしてもその描写すべてに現れており、自然な説得力を持たせているのだろう。故に、続編やらスピンオフやらは非常に作りやすい作品になっている。
ガルパンで緊張感を演出するための最たるものが戦車である。
これまで、この戦車をアニメーションで描画することはこれまで非常に困難であった。これは過去のアニメーション作品の中で戦車のギミックがあまり現れていないことからもよくわかる。ただ1車両のみの登場(うる星やつら、など)やあるシーンのみ複数車両登場する(天使のたまご、など)といった作品はいくつか存在するが、全編に渡って戦車がしかも大量に登場するアニメは、ガルパンが最初である。
このある種、技術革新による表現能力の向上を象徴する戦車は3DCGでモデリングされており、シェーダーの発展も相まってデジタルアニメとの合成も片側が浮いて見えること無く継目なしに自然に見ることができる。戦車同士の射撃シーンは、キャラクターの死がまったくと言っていいほど無い設定ではあるものの、その設定が荒唐無稽であるように感じてしまうほど迫力と緊迫感がうまく出ている。これらは、3DCGシーンとアニメ同士でお互いを補完するような演出やレンダリングの自然さが深く関係しているはずである。
複数のサブチームからなるチーム戦という設定は、キャラクター同士の関係性、ひいては個性に深みを持たせていると感じた。本編では一部の戦いの場面を除いて、基本的にキャラクター同士の掛け合いがサブチームのなかで繰り広げられている。掛け合いは話題の中心となるキャラクターの一面性をパッチワークのように模様付けるだけで無く、張り合わせる側のキャラクターの性格も投影する。このため、言葉にさまざまなニュアンスを持たせることができ、その解釈は視聴者にゆだねられる。この個性という名の設定において、固まっている部分だけでなく妄想できる余地を残しておくことは後々のファン活動を後押しする。この点がうまく働いているかどうかは、もはや言うまでもない。
このキャラクターたちをグルーピングする枠組みは、一見散漫さが目立ちそうな、雑多なキャラクター属性を持った集団をまとめ上げる事にも関係している。 そうしたことを踏まえた上で、全体を通して場面から場面への移り変わりが非常にざっくりしていることからも、大人数のキャラクターを描くための効率的な演出を考えていたんだろうなと思わせる。
先の考察からこのアニメは、けいおんのような女子校生アニメ+タッチのような王道的でわかりやすい問題解決の物語の皮を被っていながら、その実圧倒的な造り込みと知識量からくる情報過多さが特徴的なアニメと言える。
この情報量の多さは、もちろん弊害も生み出している。たとえば、おたく的な指向性を持たないすなわち凝り性があまり無い、もっと言えばあまりテーマモチーフにあまり興味が無い(もしくは無かった)視聴者にしてみれば、ざっくりとした演出で、キャラクターが散漫に映っているだろうし、分かる人でなければ分からないネタや共通知を必要とするために、なんだかわからず終わってしまった…と言う状況になりかねない。
しかし、意図的なのかどうかは定かでないが、強引な世界観を作りだしてまでも戦車をテーマに趣味性を全面に積み込み、丁寧かつ練り込まれたキャラクター性や演出を施した女子校生アニメは、結果的に現代のおたく的指向性によくマッチしたのだと思う。
- 押井守の「世界の半分を怒らせる」。第16号 - ニコニコチャンネル:社会・言論
- 押井守の「世界の半分を怒らせる」。第17号 - ニコニコチャンネル:社会・言論
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- 押井守のガールズアンドパンツァー語り - 基本読書 (第16号「がるぱん」の要約)
さて、戦車とアニメと言われて個人的に思い出すのは押井守監督作品である。私は(一部の他の方々と同様に)ガルパンについて押井守がどのような感想やら意見を持っているか、とても気になった口である。彼は自分のメールマガジンで3回に渡ってその内容を語っており、現在唯一ネット上で見れる内容だったので読んでみたが、押井守その人の思想やらアニメ哲学で構築されたあり方として保守的な、しかしイデオロギー的には左によった感想…と言っても作品を見ていないようなので意見であった。なるほど、模型オタとしては複雑な心境なんだな、全共闘世代であるその人の戦車観?が現れているなと。頷ける点も多くあったが、個人的にはジャパニメーションの文脈で本作の戦車をメカ文化の系譜おいて末期的な回帰だと述べている事が引っかかった。
押井:『鉄腕アトム』も『鉄人28号』も全部その産物であって、科学技術で負けたんだというところから生まれてる。でも実際は違って科学技術をふくめた国力の差、もっと言えば合理的精神の差なんだよ。思想で負けてるんだよ。目に見えない技術ということを尊重するというさ。実際は技術で負けたんじゃなくて、明らかに科学的思考とか合理的思考で負けてるわけだ。それはシステムエンジニアリングまでふくめたところでね。マーケットリサーチもふくめて、暗号技術も全部ふくむんだよ。それを一番てっとり早く、科学技術、テクノロジーという部分で信奉し続けちゃったから技術立国になった。技術立国にはなったけど、科学立国にならなかった。
――思考を学ばなかったと。
押井:その象徴的な表れが巨大ロボット。というところまでは繋がったわけ。第2の身体だから、当人と別個の身体であればあるほどその落差がドラマになる。だからあるときから姉ちゃんがロボットに乗り始めた。で、その延長でなぜか回帰して、姉ちゃんが戦車を転がし始めたと。これは俺に言わせると末期的思想なんだよ。そう思って俺は舐めてたんだよ。
押井守の「世界の半分を怒らせる」。第16号 - ニコニコチャンネル:社会・言論
ジャパニメーションにおけるロボットのキャラクター性は明らかに存在している、これはそれら各種プラモデルなどグッズ販売が展開されている事からも自ずと言える。監督曰くこうした傾向は敗戦に基づく日本人の精神性が影響していると断じており、その精神性がメカ文化においてはテクノロジー信仰として現れ、先鋭化することでキャラクター性を持ったロボットつまり第2の身体としてのロボットに行き着いたと、戦車はその系譜から外れていると。
しかし、私はこのロジックにおける系譜は本作においてもまだ続いていると考えている。本作の戦車はいわば既存の戦車のがわを借りたオーバーテクノロジーの塊(異常に固い装甲、女子高生でも扱える質量の材質など)であり、明らかに既存の戦車をテクノロジー信仰のもとに底上げした結果と見ることができるためである。 話は少し外れるが、アニメ兵器の強さを議論する際に人型兵器についてよく挙がる話として、同じテクノロジーで作った戦車の方が強い、というものがある。本作の戦車はまさにその話をワンダーなしロマンなしに実行したようなものではなかろうか。ただ、科学的・合理的思考は過去の戦車を使っているためある種欠如している。まぁたとえが悪かった。閑話休題。 この戦車のキャラクター性については、ベースとなった現実の戦車のキャラクター性と複数搭乗員のキャラクター性が複合したものがそれにあたる。 この複合したキャラクター性は、内包する個別のキャラクター性と対比することになり、それが結果として監督の言う落差を生み出しているとも読み解ける。
本作戦車は言うなればSF戦車であるが、監督本人の戦車観において、例に漏れず現実的な兵器の戦車としての見方が強くなされており、ある種のズレが起こっている。戦後の平和を享受した高度経済成長以降に育った世代において、もはや過去の精神性で組み立てられたロジックは通用せず新たなアニメキャラクター論のパラダイムへと移りつつあるのかもしれない。
結局、監督本人は本作を見ているわけでもないし戦車に対する価値観も極めて主観的だと自覚していたので、いわゆるプロレスやね。
まぁ、ごちゃごちゃした事は置いといて、やっぱり浪花節的なストーリーは胸に来るものがあるんだよなぁ、歳か。
はんかんびいきね
ダージリン in 10話